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北前船とはどういったものですか。

カテゴリ 芸術文化   掲載日 2011年6月30日

ご質問 北前船とはどういったものですか。
回答  北前船(きたまえぶね)は江戸時代から明治時代にかけ、大阪から下関を経て北海道に至る「西廻り」航路に従事した日本海側に船籍を持つ海運船のことをいいます。「キタマエ」は上方(大阪、京都)から見た蔑称であり、ここ富山では「弁財(ベンザイ、ベザイ)船」、または「バイゼン」の名で呼ばれていました。

〜北前船発展の背景〜
 室町時代には敦賀(つるが・福井)から十三湊(とさみなと・青森)までを結ぶ北国航路があり、琵琶湖の水運とともに、陸路は馬で上方に荷物を運んでいました。江戸時代になって加賀藩では年貢米を売ってお金を得るために敦賀・小浜・大津に蔵宿(くらやど=米問屋)を設けて、上方へ米を運びました。最初は、敦賀で陸揚げした米を琵琶湖まで馬により輸送していましたが、この方法では米俵の痛みがひどいうえに運賃がたいへん高くつきました。そこで加賀藩三代藩主前田利常は、日本海から下関、瀬戸内海を経由して大阪に至る西回りの新航路を開拓して流通ルートの開発を行います。
 この大阪廻米はますます盛んになり、日本海沿岸では帆と多くの水夫(かこ)が櫓(ろ)・櫂(かい)を使って進む北国船・はがせ船が利用され、瀬戸内海では四角い帆1枚で航海する弁財船が発達しました。西廻り航路の開拓後はこの両者が経済性で競い合い、やがて櫓・櫂を使用しない乗組員が少なくて済む弁財船(北前船)に作り代えられていきます。

〜北前船の特徴〜
 弁財船の特徴は船首の「そり」と中棚の開きを大きくしたもので、耐波性と安定性に優れていました。さらに構造的に根棚や梁に工夫を凝らして日本海の荒波にも耐えられるように堅牢性を高めていました。
 江戸後期には、船型の格好が不恰好になり船足が遅くなるのを承知のうえで「腰当」より「あか間」・「三の間」を広くすることで、荷物がより多く積めるようにしていきます。つまり船の前部が太めの、「ずんぐりむっくり型」の北前型弁財船のスタイルが作られていったのです。荷積みが主でしたので船員数はできるだけ少なくし、最大600石積みクラスの船で船員は10〜15人だったといいます。
 ちなみに「1石」(1石=10斗=100升=1000合)は成人ひとりが1年間に食べるお米の量ともいえますから、弁財船の積載量は大変なものだったのです。現在の10トントラック換算で6〜7台分の荷物を運んでいたことになるでしょうか。

〜北前船が運んだもの〜
 文化年間(19世紀はじめ)、越中では米を増産するため肥料に北海道のニシンを多く使うようになり、鰊肥の輸送と販売で北前船大活躍の時代が来ました。
 放生津(当時の射水市新湊地区)の海運業の活躍は目覚ましく、青森県外ヶ浜町三厩(みんまや)湊で発見された安保家「客来帳」に越中から来た北前船は全体の30%を占め、港別では放生津(新湊)が圧倒的に多く、以下、六度寺(新湊)、芦崎、水橋、東岩瀬、高岡、横山、伏木、氷見の順に記されています。青森、北海道の方で米、雑貨などを売り、ニシン・昆布などの海産物を買い付けて、北陸の港や大阪で売りさばき、同時に大阪からもいろんな商品を買って運んだといいます。
 太平洋側の江戸・大坂間の菱垣廻船などは、船主が荷主から運賃を取る「運賃積み」であったのに対し、北前船は、船主が買い入れた荷物を他の港で売りさばく「買い積み」という経営方法が主でした。ですから速力より「どれだけ多く積めるか」という積載量が重要視され、ずんぐりむっくりの北前船が多く利用されたのです。
 明治10年(1877)頃が北前船のピークといわれています。同23年(1890)の全国港湾における50石以上の船舶数では新湊は富山県1位、全国でも9位で、132隻もの船が活躍していました。しかしその後西洋型船と蒸気船が進出するようになり、急速に北前船は衰退していきます。

〜北前船を見てみたい〜
 新湊博物館ではこの北前船の模型を展示しています。この模型は射水市柴家所蔵の長船丸(ながふねまる)600石積型をモデルにしたもので、実物のほぼ7分の1の縮尺で作られています。模型とはいいながら、きわめて精巧に作られており、航海の安全を祈る起舟祭(きしゅうさい)のとき船霊(ふなだま)を祀るのに使用されていたものです。
 600石積は北前船としては標準の大きさです。もともとは米600石相当の重量の荷物を積める船ですが、北前船の場合、実質800石近く積むことができました。600石積みは外国船の基準でいうとほぼ90トンクラスの船にあたるといわれています。この長船丸の実物の舳先から舵までは最長約27m、帆のある腰当の幅は約9mあります。
 このほか、北前船長者丸の漂流事件についても、ビデオで詳しく解説しています(4分間)。(このビデオの解説ナレーションは、新湊出身の落語家立川志之輔さんです)

お問い合わせ

新湊博物館
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