射水の遺跡 2021年5月20日更新 シェア ポスト 射水の遺跡 射水市内には、旧石器時代から昭和前期までの460箇所の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)があります。 遺跡は、市域のほぼ全域に広がっており、富山湾に面する古くからの海岸砂丘、市域の大部分を占める低湿地の射水平野、南部の射水丘陵など、遺跡の立地や地形により時代や性格が異なっています。 旧石器・縄文時代 約6,000年前(縄文時代前期~中期)には、まだ射水平野が十分に広がっていませんでした。また、縄文海進期と呼ばれる気候の温暖な海面上昇期にあたり、現在の標高5m付近まで広大な入江が形成されていたと考えられています。そのため、縄文時代中期までの遺跡は、南部の射水丘陵を中心に分布しています。 その後、気候は徐々に寒冷化へと向かい海水面が低下していきます。加えて、河川によって運ばれる土砂の堆積が進んで平野が徐々に北へ拡大し、縄文時代の後期には、平野部でも遺跡が現れてきます。 ①縄文時代の遺跡 弥生・古墳時代 弥生時代になると、射水平野の広い範囲に遺跡の分布が拡大していきます。 平野部にある弥生時代の集落は、河川周辺や砂丘・砂州など、わずかに標高の高い微高地上に立地し、周辺に広がる低湿地を利用した水稲耕作が行われていたと考えられています。このような集落の立地のあり方は室町時代頃まで受け継がれており、遺跡の時代や立地から、平野の形成や気候・環境の変化をうかがうことができます。 古墳時代には、南部の丘陵地や河岸段丘上に前方後円墳や円墳が築かれ、徐々に射水の地域(クニ)が形作られました。 ②弥生・古墳時代の遺跡 飛鳥・奈良・平安時代 奈良時代、庄川左岸の伏木台地に越中国府が置かれました。 射水平野には、東大寺や西大寺など中央の大寺院が所有する荘園が複数あり、国有地である農地や荘園を管理する郡衙などの公的な施設と考えられる遺跡が見つかっています。 射水丘陵では、飛鳥時代に須恵器(すえき)の生産が始まり、奈良・平安時代にかけて須恵器窯跡約40遺跡、製鉄遺跡約150遺跡を数える県内最大規模の生産遺跡集中地帯となりました。燃料とする薪の入手が容易であり、付近を流れる中小河川を利用して、生産地から消費地である平野部へと物資を運びやすいなど、窯や製鉄炉を築くための条件に恵まれていたと考えられます。 ③飛鳥・奈良・平安時代の遺跡 鎌倉・室町・安土桃山時代 鎌倉・室町時代には、現在まで続く集落の多くが誕生しました。 平野部の開発も進み、下鴨神社へ寄進された倉垣荘(くらがきのしょう)など大規模な荘園が置かれました。土地の開発や荘園の管理を担った武士などの領主が住んだと考えられる方形の溝で囲まれた居館跡が市内の各所で見つかっています。また、鎌倉・室町時代に作られた石塔・石仏も市内にたくさん残されています。 鎌倉時代には、放生津が日本海沿岸交易網の一角を担う交易拠点へ成長していきます。明応2年(1493)には、室町幕府10代将軍足利義材(義稙)が滞在し、放生津に越中幕府が置かれました。放生津城は、足利義材を支えた射水・婦負郡守護代神保氏の居城です。 戦国時代は、神保氏から上杉氏、織田方の佐々成正から前田氏へと越中の支配者が変化していきます。日宮城は、上杉方と一向一揆勢力との戦いの舞台となりました。 ④鎌倉・室町・安土桃山時代の遺跡 江戸時代以降 江戸時代後期に加賀藩が設置した放生津台場跡や、江戸時代後期から昭和前期に生産された小杉焼の窯跡などの遺跡があります。 PDFファイルをご覧になるには、Adobe Readerが必要です。こちらのバナーから無料でインストールできます。 お問い合わせ 教育委員会 生涯学習・スポーツ課 所在地:〒939-0294 射水市新開発410番地1 電話:0766-51-6637 FAX:0766-51-6663 Eメールアドレス:shougaku-spo@city.imizu.lg.jp